作家と作品を同一視する人は、作品の価値なんて分からない

佐村河内守さんのゴーストライター問題をきっかけに、色々と批判や意見が噴出しています。その中でたまに見る、「この事件のせいで作品に感動できなくなった」というような意見。ゴーストライターの件や、全聾(耳が聞こえない)だと偽った件については許されるものではないですが、既に生まれ落ちた作品については、作家と切り離して考えてもいいのではないかと思います。

そもそも、耳が聞こえない人が作ったから感動したんだとしたら、それこそ作家にも作品にも失礼です。作品を認めて感動したんじゃなくて、物語に感動しただけなんですから。

仮に、違う二人の作家が同じものを作ったと仮定したらどうでしょう。一つは恵まれない環境に生まれた人が作った作品、もう一つは傍若無人の限りを尽くした人が作った作品。同じものなんだから、作家を目にしなければ感動は同じはずです。作家を知って評価が変わるなら、それは作品の評価ではありません。

とあるミュージシャンが昔いじめをしていたということで、似たような話題が盛り上がっていたのを見た事があります。「どんな人間性でも作品は作品だ」「作品は作家と切り離して考えられない」など意見は色々とあったんですが、その中に「そもそも下劣のな人間から素晴らしい音楽が生まれるはずがない」というものがありました。確かにそれはその通りで、心根が汚い人からキレイに透き通った曲が生まれる可能性は限りなく低いでしょう。

問題はあくまで、仮に全く同じ作品が生まれた場合の評価なんです。個人的には、作品は生まれてしまった瞬間から独り歩きして、作家のものではなくなると考えています。例えばそれが楽曲なら、曲を作った時点で生まれた「譜面」という一次作品と、演奏される時点で生まれる「音」という二次作品。例え譜面が素晴らしくても、演奏する人がダメなら、ろくでもない音が生まれてきますよね。

もう一つ言ってしまうと、そもそも芸術なんて心の吹き溜まりから生まれるもの。「売れたい」「モテたい」「目立ちたい」「喜び」「怒り」「悲しみ」「嘆き」など、ポジティブにもネガティブにも気持ちの強さが形を変えて生まれるのが芸術。世の中に仙人のような人がいれば話は別ですが、多かれ少なかれ濁った部分があるからこそ、心に響くものが生まれるんじゃないのかな。

今回の問題でも、少なくともゴーストライターの方が作品を作り上げたことに間違いはないんです。佐村河内守さんに対するイメージが変わるのは当然ですけど、楽曲の評価は楽曲の評価でいいじゃないですか。

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